一月十四日、私は九十四歳でなくなった伯父の告別式に出席する為、午前の外来は臨時休診にしてあったのでいつもよりはゆっくりの起床を予定していました。しかし、その日の早朝、眠りを破る携帶電話の呼び出し音で跳び起きると、電話の向こうの院長の声は私を驚愕させるに充分で、もんちゃんのリードが切れて目下脱走中というものでした。かつて我が家で飼っていた[リキ」の散歩で、リードなしでも全く安全だった谷田部の田んぼや畑の畦道ならいざ知らず、花見月通りともなれば、朝とはいえ、交通量も可なりあるし、理論必然的に不幸な顛末の予想が頭の中を駆け巡りました。喉は渇くし、焦りのいわく言い難い心持が全身に溢れてくるしで、とてもそこにじっとしていることが出来ず、すぐさま車に乗って牛久に向かっていました。
出かけて間もなく第二報が入りましたが、既に1kmほど走ったが姿は見失ったままで、仕方ないので、家に戻って自転車で探しに出かけると心細げに呟くと電話は切れました。私が牛久にたどり着くのには最短でも3時間はかかるので、その間院長を援助してもらう為に、もんちゃんを知っている人で、捜索に参加してくれそうなメンバーに片っ端から電話を掛けまくり、再び車を猛スピードで発進させました。その時の私は、声は上ずり、説明もうまく出来ず、全く冷静さを失っていると思いましたが、落ち着いた振りをする余裕もありませんでした。
いつも牛久に帰るときにはそうするように在来線を選択してしまったので、通勤の自家用車が徐々に増えて、焦る気持ちとは裏腹に車の流れは甚だゆっくりで、短気者の私は車の中で前を殊更のろのろ走る運転者に向かって怒鳴り散らしていました。その時の気持ちは余りうまく表現できませんが、ただひたすら絶望的な心持であったことは間違いありません。
こうして顛末記を書いているのだから、もんちゃんが無事生還したことはもちろんですが、私と同じくらい、あるいはそれ以上に絶望感に打ちひしがれていた院長のことを思うと心からお詫びしたい気持ちになります。なぜかと言えば、切れたリードを作って提供したのは私だったからです。自信作だっただけにその点でもショックでした。
結局、家に戻った院長が予定していた自転車はパンクしていて乗ることは出来ず、再びとぼとぼと歩き出したそうです。それから10分ほどして家の前に差し掛かった時、少し開けておいた門から家に戻ったもんちゃんが何食わぬ顔で[何しているの僕はここだよ]と言わんばかりに尻尾を振っていたのだそうです。
院長から最後の電話を貰った時、私の車は渋川の住居から15kmほど走った後でした。捜索依頼をした人たちにお詫びの電話をしたあと、絶望感から反轉、安堵感に満たされて、私はゆっくり来た道を戻りました。
甚だしい緊張感から急速に解放された時には常にそうであるように疲労を伴う虚脱感が全身に染渡るようなそんな感じでしたそして、10時からの伯父の告別式には予定通り出席しました。 (Mann Tomomatsu)