第37回 牛久シティマラソン
1月 28th, 2013 by hpone_support2A1
昨年の春先から、毎朝1時間くらい歩くことを日課にしていましたが、その内ただ歩いているだけでは物足りなくなってくると、速歩はジョギングに変わり、6月頃からは7~8kmのコースを決めて走るようになりました。その甲斐あってか、腹回りの脂肪も少しずつ落ちて、穿けなくなっていたズボンにも足を通すことができるようになったのは、正直眠い目を擦りながら布団から飛び起きるという苦行に耐えた成果かも知れない。無論、走ることに特別の意味づけや、目標設定をしていた訳ではないので、話は概ねそこら辺りで完結する筈でした。
昔から短距離走はどちらかと言えば得意で、小学生時代、所謂るかけっこならクラスで1番、中学になってもクラス対抗リレーの選手だったし、長距離は苦手でしたが、12分走は2800mで、医学のクラスの中では結構上の方だったと思います。しかし、それらは「私の記録」と呼べるような代物ではなく、陸上部で頑張ったような人たちからすれば、レベルの低い実に他愛のない話です。それでも、早朝日課にして3~4km走るなどのことは医者になってからも間歇的に続けていました。彼是25年ほど前、第1回つくばマラソンでフルマラソンの部に参加したことがあり、6時間近く掛かって、最後は膝痛に耐え、歩きながら完走したと記憶しています。その時も可なり走り込んで準備していた割りには思うような結果を残せず、走ることに適性を欠くことに気付かされると、最早無益なことと諦めて、以後大会らしきものに参加した事はありませんでした。
今回、当該大会にエントリーすると決めたのは、甚だ唐突ながら毎年12月に実施されている「ホノルルマラソン」に今年参加するための前哨戦と考えたからです。尤も、初めの趣意はハワイに遊びに行くということであって、マラソンレースに出ることを想定していた訳ではなく、飽く迄もバカンスを楽しもうということでした。それは一種の連想ゲームで、「ハワイ―ホノルル-ホノルルマラソン―10kmウォーキングにドラマはない―フルマラソンエントリー―まずは牛久・10kmの部から」、という具合で、何時しか茶飲み話は綿密な計画へと変貌して行くことになります。ハワイに行くことは決めているものの、思わず口走った一言「折角だから来年のホノ・マラ参加だ」で、引き返すことの出来ない強迫的なランニング生活がスタートすることになりました。口先だけの「あなた任せ」の私に対して、万事に計画的な高山院長からの最後通牒の如き「まずは手始め、牛久シティマラソンにエントリーしますよ、ホノ・マラに向って」。普段だらだらと走っていれば済んだものを、口は禍のもと、走りたい時に走り、面倒臭ければパスと言うわけには行かなくなったのです。尚極めて積極的な彼女は、これまでにホノルルマラソンに2度出場していて、6年前のフルマラソンでは4時間半の記録を残しています。私の参加の意志表示は「ついでの勢い」でしたが、彼女は私とは無関係に今年、3度目の参加を計画していたそうです。残念ながら同行予定の女医が体調不良で不参加となった為泣く泣く今回は諦めた、と言う話です。
年末から年が明けてからも、アップダウンのコースや川縁の比較的平坦なサイクリングコースをほぼ毎日8~10㎞走っていましたが、一月十一日の朝を最終ランにして、十四日の大会に臨もうと計画していました。レース出場が決まってからも、概ねゆっくり走っていたし、本気を出した積りでも10㎞を走るのに制限時間ギリギリの70分はかかってしまうので、最後はレースを意識し可能な限りスピードを出してみました。残り2㎞足らずに差し掛かってラストスパートを決めて県道を勢いよく横切った時、左の大腿部に激痛を感じ、一時は歩行困難になりました。肉離れではなかったのか、日毎に疼痛は軽減してきたものの、大会当日の朝になっても痛みは残ったままで、出走1時間前にボルタレン25mgを服用しました。「正に薬石効あり、痛みも殆どないぞ」と思った次の瞬間、スタートから2㎞の辺りの緩い下りの傾斜を利用してスピードを上げたのが運の尽き、再び襲う酷い痛みで跛行を余儀なくされ、ずるずると後退してゆきます。何時しか雨は霙に変わり、吹き付ける寒風に心も萎えてゆきそうでした。出来るだけ元気な振りで5㎞位までは何時歩き出そうかと考えつつも、路肩に待機する救護車を横目で見ながらゆっくり走り続けていました。沿道に配置された係員や、手旗を持った人々が「頑張れ」とか「マイペースで」と応援してくれますが、「もう走るのを止めたらどうですか」と言われれば直にでもレースを中止したい、というのが正直な気持ちでした。そこで最後の手段、祈るような気持ち、ランニングパンツのポケットに忍ばせておいたもう1錠のボルタレン25mgを徐に取り出すと、一気に呑み込みました。残り1㎞辺りになると痛みも可なり内輪になってきたのを恃みに、私同様の敗残兵の如き数人を何とか追い越し、制限時間ギリギリ、69分56秒でゴールに辿り着きました。院長は私より5分余り先に到着していました。
散々な結果でしたが、却って今後の目標を改めて認識することが出来た良い機会であったと思います。一方で、太腿の痛みは重症で、最後の無理のせいか暫くは歩くのも可なり大変な状態でした。その後約2週間が経ち、徐々に回復して来ており、2月からは調整しながらまた走り始めたいと思っています。尚、大会の日の天候はご存知の通り最悪で、午後になると絶望的とでも評したいように、益々雪の降り方は本格的になって、アイスバーンを心配して早めに群馬に向かった筈なのに辿り着くのに通常の倍、6時間半を要しました。また、応援に来た家内は常磐自動車道不通の煽りを食らって6号国道の渋滞にはまり、水戸まで帰るのに8時間を要したそうです。とまれこまれ、雪の中で激励の言葉を掛けてくれた方々に、深甚の感謝。 (Mann Tomomatsu)