日本解剖学会に参加して
4月 21st, 2013 by hpone_support2A1
3月28日からの3日間を会期に、高松で当該学会は開催されました。無論初参加で、解剖学には無縁な私が何故香川県くんだりまで出掛けるのかと訝る向きもあるでしょうが、そこで発表される演題の多くは解剖関係で占められているのは当然のこととしても、好中球の貪食反応やら不妊症やらと、嘗ての私の研究とも関係のある発表が抄録集に多数掲載されていたのを高山院長が目敏く見付け、2月の末に連絡してくれたからであります。本学会はおよそ解剖と関係ないと思われる様々な領域に亘る研究を取り扱い、寛大にして鷹揚、何でもありの、謂わばバリアフリーな学会と言う印象でした。
27日、午後7時40分羽田発のJALは出発が10分遅れた上に、天候不良を理由に、「已むを得ず羽田に引き返すこともあるので、ご了承下さい」というアナウンスが実に堂々と悪びれる様子もなくロビーに流れました。成る程、大雪だったり強風だったりすると目的の飛行場に降りることが出来ず引き返したり、何時までも上空を旋回していたと言うような話を聞いた事はある。強行着陸して飛行機が滑走路に激突でもしたら元も子もないのは当然だが、U―ターンして「無事羽田に戻りました」なぞと言われたところで、到底承服は出来ない。だからと言って一体全体誰が責任を取ってくれるのだ、と息巻いてみても、天候の悪いのは飛行機会社のせいではないし、反省すべき点はないと言うに決まっている。或いは、卑近な話、地震や強風で常磐線が運行を中止したからと言って、駅員に詰め寄っても埒が明かないことは百も承知であります。結論は初めから解かっていて、不毛なやり取りを繰り返した揚げ句の果て、時間が全てを解決する。怒りは徐々に減衰し、八つ当たりにも疲れ果て途方に暮れることになるのでしょう。結局、この間に抱いた後悔や不満は収斂し落胆へと変質してゆき、不承不承に受容せざるを得ない、というところまで思考を展開し、気が付けば、飛行機は羽田空港の地面を離れて空中に飛び出していました。最早行き着いた先のことをあれこれ考えてみた所で向こうの天候は変わらない、そもそもこの飛行機だって途中で墜落しないと言う保証は何処にもない。全てを運に任せていつものことながら、目をつむり歯を食い縛って両足を踏ん張り、南無さん、と心の中で叫んでいました。
幸い高松空港に近づいたいた頃は霧で視界不良と言うような事も殆ど無く、低空飛行の窓外に点綴する人家の明かりがハッキリ見えました。後は黙ってこの飛行機が高松空港の滑走路に降り立ってくれればいい。幾つかの危惧から解放され、何事もなかったかのように飛行場からのシャトルバスの狭い座席に腰を降ろしたのは既に午後9時を回って、高松駅の直にあるホテルに着いた時には10時を少し過ぎていました。2年前に東京から当地担当で赴任した旧知と事前に約束しておいた指定の場所で無事落ち合うことが出来、暫し酒を酌み交わし旧交を温め、ホテルの部屋にに戻ったのは日も改まった午前1時頃でした。
第1日目のシンポジウムに始まって日がな一日会場に居続けたのは久しぶりのことでした。2日目、3日目と都合3日間病院を空けているという後ろめたさを感じると同時に、少しは勉強したという言い訳が脳裡を過ぎっていました。が、それも初日、会場を移る時、度の強い老眼鏡を掛けていた為に、階段のある講堂で、段差の目視を誤って転げるようにつんのめってしまったのであります。そこで慣性に逆らわず床に倒れこんでおけば、周囲の失笑は免れなかったものの、斯くも酷くスジ(解剖学的には腱鞘と言うべきか)を痛める事も無かった、と大いに後悔しました。。醜態を晒すまいと左足を強く踏ん張ったのが運の尽き、足を引き摺るようにドアから出るのが精一杯で、10分余り動くことが出来ませんでした。だから高松のお土産は今でも疼く左大腿のダメージです。お蔭で、戻ってからの朝のランニングの際、後ろから遣って来るどう見ても私よりも高齢のランナーにすら楽々追い抜かれてしまう始末です。
学会に出掛けて行って勉強する、と言っていた医者がいますが、普通に勉強する為に膨大な時間や安くない交通費、宿泊費を使うとしたら実にコストパフォーマンスの悪い話だと思います。嘗て研究を専らにしていた頃は、発表以外で学会に出かけてゆくようなことは殆どなく、飽く迄も次の研究に繋がる新しい知見に接することが目的でした。実験から離れて既に10年以上経過し、最早叶わぬ夢とは知りながら、作業仮説を立てて何かを説明するという研究の醍醐味をもう一度味わうことが出来たらどんなに素晴らしいかと思わずにはいられません。そして、せめて産婦人科医たる息子の一助となる機会があればと思うばかりです。 (Mann Tomomatsu)