春、船出する人を送る
4月 28th, 2014 by hpone_support2A1
四年前の春三月、次男は猛勉強の甲斐あって志望大学に合格しました。その翌月の入学式には妻同伴で参加し、生憎の雨もものかわ、日本武道館の前で傘さして立つ彼の姿を濡れそぼちつつカメラに収めました。あの場所から各々の人に銘々の時間が流れ、様々な軌跡を辿って再び三人は卒業式の会場たる有明コロシアムの入り口で落ち合うことになるのです、まるで何事もなかったかのように。感無量というような情熱的な感想を抱けなかったのは、突如官僚志望を辞めると言い出し、民間に就職することを選択することになったからかも知れません。詰まらない話だが、彼の成績を見ればその大半は「良」で、「可」よりも「優」が多く、法学部およそ四百人中の中くらいにはいたのではなかろうか、と信じています。四年間で卒業できることを当たり前だと思いつつも、彼が時に弱音を吐くこともあって、卒業式の案内が来て私は安堵の嘆息を漏らすほどであったというのも正直な感想であります。< ところが、翻って、昨年の六月末になっても企業の内定が貰えず、「就職戦線に異状あり」と言わざるを得ない現実を目の当たりにし、形振り構わずコネを取りつけようと何年も連絡を取り合っていなかった友人等に電話した時のことを忘れることはできません。無論、少しも役に立つような情報は返ってきませんでした。就職浪人でもしたら大変だとか、大学院に進んで学者を目指してみたらどうかとか、ふと気づけば、そんなことを考えてばかりいた時期がありました。最寄りの八幡様と言わず、目につく寺社の類には躊躇なくお参りをしました。結局、他にも内定は出たものの、行くつもりはないと言っていた会社の海外事業部の法務関係の仕事を選択しました。当初、私は就職活動に関しては全く無知で、彼の大学ならば希望すればどんな企業にでも行けるくらいに高を括っていたのでした。 動物嫌い(今でももんちゃんに激しく吠えられる)で人間嫌いな彼は、多くの最終面接でレフリーにその本性を見抜かれ、使いづらいと見限られていたような気がします。さは然りながら、親バカと言われても、エン-トリーシートの書き方から始まって、面接の際の心得等を一緒に勉強しておくべきであったと少し後悔したのも事実です。改めて、彼のような性格では、世辞は言わず、頑固で人当たりは極めて悪いので、外交は向かないであろうから、銀行などよりも良かったかも知れないと考えるのは負け惜しみでしょうか。 卒業式の会場に向かう常磐線の車中、新橋で乗り換えたゆりかもめの座席に着いても、時間の許す限り、彼が社会人になるための心得を手帳にしたためました。喋り過ぎるな、沈黙は金。へらへら笑うな、舐められるぞ。約束の時間に遅れるな、on timeは危うい、早過ぎるくらいで丁度良い。物事はできるだけ単純化して考え、より少ない語数で説明する訓練、などなど。ただでさえ読みづらい私の字は揺れる電車の中では更に読みづらく、彼が私の思いを十分に汲み取ることが出来たかどうか、少し心配です。そして最後に、困ったことがあったら、いつでも連絡して来い、と書きたい気持ちを抑えて、弱音を吐かずに只管頑張れと書くのが精一杯でした。 私は出来る事は何でも、出来なさそうな事でも何とか遣り繰りしてきたと思いますが、子供たちから感謝されたいと思ったことは一度もないし、金輪際真っ平御免蒙りたいと思っているのであります。「お父さん、お母さんありがとう」などと言っている暇があるなら、自己実現のためには我々を踏み台にして社会で活躍することを常に心掛けて貰いたいと、切に願います、私こそ誇り高き彼らに感謝しているのだから。 ( Mann Tomomatsu )